昭和39年12月17日 夜の御理解






 よく、我を取るということを申します。我を取るということは、あのどういうことだろうか。今日、親教会の月次祭と総代会がございましたから、夕方までいろんな打ち合わせを致しました。私いつもこれを感じるんですけれども、善導寺の岸先生に、の、教会を中心にして、いつも何か事をなす時に、いろんな計画をされるんですね。見事な、そのやはり計画をされます。

 今度も信徒会、善導寺の信徒会の、金光教三井信徒会会則というものが、それはもうほんとに水も漏らさんようにしっかりできとるですね。そしてその、言われることもですね、ほんとに人が言えないことを、ずばりずばりとこう言われるですが、どうして、あの、あんなふうに、見事にできたり言えたりするだろうかと。また私のいろんな思いやらもございますから、いろいろそのまあ言わせて頂いたんですけど。

 そういうな時に、私はあの心中祈念させて頂きよりましたら、この「物」という下に「心」という字、「惣(そう)」という字ですね。物の下に心。ね。次に、あの私の総一郎の「総」であるところの、すべてという字。糸偏に公を書いて心。これを頂くんです、二つ。あはぁ、この私心がない、わたくしごころがない。何をなすにもです私を中心にした考え方では、あんなよい智恵も浮かばんでしょう。

 また言えることも言えないだろうと、私は思うんですね。そして私は思うたんですけれども、その自分の心が公に、いわゆる総べてという字ですよね。糸偏は神とのつながりと、こういう。公、下に心という字。いうなら、神様を中心にして考える、または、教会を中心にして考える。自分の私心というものがない。例えば役員会とか、総代会なら総代会でもそうです。

 いついつは自分の都合の悪いけんで、人んことはそのまたにするとか、あとからするとかって、こんな人があるんですけど、これはもうやはりおかしいですね。これでいわばよい会ができるはずないですね、会合ができるはずございません。思いよった人がですよ例えばなら、我をもってしておるわけです。その日は自分に都合の悪いからそりゃせん。そして自分の都合よか日にする、人の都合の悪い日なんか考えない。

 これでは本当のことはできないと思いますね。 だからわたしは、我を取るということはですね、その、神様を中心にした考え方だと、こう思うんですね。そんなら、(てい?)我の強いようなことを言うておっても、それはもうすでに我じゃなかと、私は思う。神様を中心にしての、例えば、ゆうでも、その表現であるならばですね、お互いの場合は、ただ自分というものが、自分の都合を中心にする、自分を中心にする。

 これは私は、ほんとの我だと思う。ね。我を取らなければということ。私は今日何か端的にですね、その我というものを今日、あの分からせて頂いたような気がした、自分を中心にしたものでは、どんなにそれは素晴らしいことであっても、それは我であると。けれどもそれが人があい、その、場合によっては、ならあ教会なら教会を中心と、神様を中心と、というようなころから。

 言われたりなされたりすることならば、それはもう私の我というものがない。ですからその、私達のあり方の中にですたい、すべてという人いわば物の下に心、どっちも「そう」という(?)だけれどもです、やはりこの自分の言うておること、考えておることが、この公なことを中心にしておる心であるかどうか、しかも、神様とのつながりのある、いうなら信心、心をもって。

 神様を中心にして、そう言うておるか、しておるかということを思うてみて、私は、事をなしていき、また、おかげを頂いていかなきゃいけないと、こう思いますね。我を取らにゃ、我を、私我が強いから、なるほど、そりゃ他にいろんな意味がありましょうけれども、私は今日は、その私心がないこと、わたくしごころのない心をもって、私、我のない心だと思うですね。おかげをいただきましょう。